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執筆者の写真Tsurumigawa

なぜ鶴見川に「舟運」の復活を目指したか(鶴見川舟運復活プロジェクト会長・長谷川武明)

はじめに


新羽の古刹(こさつ)西方寺(さいほうじ)伊藤増見師のところに国土交通省関東整備局の幹部の方が今年(2007年=平成19年)の3月に見えて、鶴見川河川敷内にある西方寺の土地売却の話があった。


席上、住職が「川舟を鶴見川に浮かべたい」という男のいる話をした由、小生に告げた。


増見師に、「新羽橋から鶴見川を眺めても何も無くさびしい、せめて小舟でも浮んでいれば風景が変わるのでは」との世間話をしたことを、覚えていて下されたのである。


その後、河川事務所の坂内所長にお会いする機会があり、「想い」を伝えたところ好意的な感触を得た。


「もしかして、ひょっとしたら」と思うようになり、これまでは酒の肴の「話題」にしていた仲間(含む先生方)に相談して、「あきれ」られながら「アドバルーン」を揚げることにした。

要旨


鶴見川中流域は、古代より縄文文化の中心地として関東屈指の遺跡密集地という。


また、凡そ総延長42.5 キロの鶴見川、河口から約14キロの、ここ新羽の里には西方寺という古刹があり、鎌倉の極楽寺から船で鶴見川を遡上して材を運び建造されたと口碑が残されている。時は明応年間(1492~1501年)の頃とされる。


新羽の呼称は「荷場」から由来しているとも、杉山神社の碑文には刻してある。


「新羽千石」といわれた穀倉地帯でもあり、御用船が行き交い、宝暦年間(1751~64年)の頃からは「寒ソウメン」を産し、大正の頃は「天然氷」を川舟で、鶴見から江戸へと運び、また川下からは下肥(人糞)を積んだ舟が太尾河岸に着き「農」に供したという。さて、最近では2002年の夏に「タマちゃん」なるアゴヒゲアザラシが新羽橋まで現れマスコミ報道で話題となった。


提案


平成21年(2009年)の横浜開港150周年、港北区制70周年を期に、鶴見川に川舟を河口から亀甲橋まで遡上させて、先人の往時を偲びたい。併せて新羽中学校30 周年の「イベント」とし、生徒が夢を抱き、そして目線を変えて「鶴見川」から「地上」がどう写るのかも試みたい。


目指したい「舟運」


1. 舟のイメージなど


歴史をベースにしたもので、「和舟、木造、櫓、竿」のイメージ。

積荷は、船の大きさ、川幅、深さ等無理があろうから、子供達への夢を乗せる小さな舟とする。


2. 場所の提案


河口からボートのようなもので果して遡上できるのか?京浜事務所殿にチェック頂くようお願いしたい。最終地点は流域センターを目指したい。本企画では、スタート地点は、樽町公園、大綱橋、または新羽橋とし、現実に可能性を確かめた上で検討したい。


3. 舟の入手方法


鶴見川で使用した川舟が望ましいが、今の所難しい。


川向(内田園芸店主、志田宅等訪問、他)、多摩川流域(丸子橋、ボート)

その他:酒匂川(伊藤和次)、豊川(近藤真一)、富士川(長谷川優)、長良川(遠藤)他に中古の川舟調査依頼


4. 何時頃予定?


舟の入手との兼ね合いがありますが、トライ的な事は今年の秋にボートで調査する等進めたい。メドは来年4~5月、できることから。


5. その他


譲歩するところは譲歩して、実現に向けて可能性を高めて行く。

具体的には、まず賛同する皆様を募り一緒になって「策」を練りたい。

母体としては「新羽史編集委員会」「新羽連合町内会」等とし、協力を国土交通省の河川事務所(新横浜)に、後援を港北区役所、鶴見区役所等にお願いしたい。


提案者:「新羽史」編集委員会 世話人・長谷川武明


平成19(2009)年5月吉日


(長谷川武明、沙羅短歌会『沙羅』229号掲載、2010年3月)


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(2011年発行冊子「鶴見川に和舟を浮かべました~夢見た仲間の50ヶ月の活動軌跡」より)

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