top of page
  • 執筆者の写真Tsurumigawa

蟲䜜物の肥料だった「䞋肥」ず運搬舟はなぜ消えたのか枯北区の事情


珟圚も残る枯北区小机の蟲地

䞋肥しもごえずは、人間の糞尿を発酵させお䜜った肥料のこずです。䞋肥が、蟲䜜物の肥料ずしお圹立぀こずがわかったのは、戊囜時代ずいわれおいたす。


そしお、江戞時代初期に刊行された日本初の蟲曞『枅良蚘』に人糞、鳥糞などが肥料ずしお玹介されおいたす。


䞋肥の倀段も、江戞時代初期たで無料でしたが、正埳・享保幎間17111736幎頃より倀が぀くようになり、蟲民は町家ず契玄しお䟿所䞀壺に぀き幟らずいうように支払うか、野菜の珟物ず亀換する圢で買い取っおいたようです。


その埌、䞋肥の倀段は寛政幎間17891801幎の初め䞀艘䞉分だったのが、倩保幎間18301844幎には䞀䞡䞉分にたで倀䞊がりしおいたす。


困った歊蔵・䞋総の蟲民たちは、䞋肥倀䞋げの嘆願曞を出しおいたす。その嘆願曞の䞭に、神奈川領暜村暪浜垂枯北区暜町の蟲民の名が芋られるこずから、枯北地域の蟲民も江戞垂䞭迄䞋肥を汲くみ取りに出かけおいたようです。


そしお、買った䞋肥を葛西舟で、鶎芋川を利甚しお運んだず想像されたす。葛西舟ずは、江戞の東郚から北郚は氎路が発達しおいたので、葛西方面に倚くの舟で倧量に䞋肥を運んだ為、䞋肥運搬舟の代名詞ずしお葛西舟ず呌ばれるようになっおいたした。


安政6幎1859暪浜開枯埌、暪浜の垂街地の䞋肥の汲取りは指定業者が行っおいたしたが、人口の増加で指定業者だけでは远い付かず、近隣の蟲家も戞別収集を行っおいたようです。


北綱島村名䞻飯田助倪倫も、慶応3幎1867に郜筑郡倧棚村ほか10ケ村の開墟を幕府に建癜し、倧棚村らの開墟甚肥料ずしお屎尿凊理を行うようにしお肥料䌚瀟を蚭立したした。


その頃の䞋肥集積堎が、珟圚の暪浜垂圹所附近にあり、その堎所から舟積みされた䞋肥は、鶎芋川の綱島河岞や倪尟河岞などに運ばれたそうです。


その埌、䞋肥の汲取り管理は垂に移管され、たた民間に移るず制床が二転䞉転しおいきたした。


枯北地域での䞋肥運搬は、制床が倉わっおも業者の舟が鶎芋川を利甚しお行っおいたした。その䞋肥舟も衛生䞊問題があるずいうこずで、明治23幎1890に東京府が悪疫防止のために䞋肥舟の構造を芏定しおいたす。


倧正䞭期頃より、䞋肥運搬は䞋肥舟ず共に、陞䞊では牛車が普及しおいきたした。


䞀方、化孊肥料が出来おきたので䞋肥の商品䟡倀が䜎䞋しおいきたした。この状況を憂え、橘暹たちばな郡・郜筑郡の有志が集たり䌚合を重ね倧正10幎1月4日綱島東照寺、12日菊名法隆寺、15日新矜専念寺、埓来屎尿代金ずしお支払っおいたものを汲取り料ずしお、取るべきだずいう意芋でたずたったようです。


1月18日、橘暹郡・郜筑郡有志14名が神奈川県知事、暪浜垂長に、陳情曞「糞尿汲陀盞圓賃銭請求の件」を提出しおいたす。亀枉は、難攻しお3月5日から30日間汲取り停止のストに入っおいたす。3月12日頃より圱響が出だし、再亀枉の結果、近距離は無料、遠距離は有料で解決しおいたす。


昭和に入り䞋肥の汲取りは、垂が監督し業者が汲取りするようになり、料金も1桶25銭に統䞀されたした。


その埌、戊争になり化孊工堎の軍需工堎ぞの転換及び化孊肥料工堎被灜により、化孊肥料の生産ができなくなり、䞋肥の䟡倀が䞊がっおいきたした。


戊時䞭は、䞋肥舟も枛少し蟲家による汲取りが䞭心になっおいたようです。


戊埌、業者による䞋肥舟が埩掻されるず共に、蟲家による汲取りも盛んに行われるようになりたした。


圓時の様子を、新矜町の䞭山宏さんは次のように語っおいたす。


䞋肥舟は、昭和20幎代たで倪尟河岞たで来おいた。舟は槜が2぀か3぀に仕切られおいた。䞋肥が必芁な堎合は、事前に申し蟌んで順番がくるず、リダカヌなどに桶を積んで新矜偎の倪尟河岞に取りにいった。自分で取りに行き、備え付けの桶でアオリ板の䞊を倩秀棒で担ぎ自分の桶たで運んだ。バランスを厩しアオリ板より鶎芋川に萜ちる人もいた。䞋肥の代金は、桶䞀杯いくらで䞖話人に支払った。それ以倖に、神奈川の䞭倮垂堎近くの10軒皋の民家に汲取りにいった。

昭和20幎代埌半30幎代頃から、䞋肥は蟲家に歓迎されなくなり、海䞊投棄されるようになりたした。たた、陞䞊茞送もバキュヌムカヌに倉わっおいき、鶎芋川舟運ずしお最埌たで残っおいた䞋肥舟も消えおいきたした。


吉川英男、2011幎3月29日成皿

2011幎発行冊子「鶎芋川に和舟を浮かべたした倢芋た仲間の50ヶ月の掻動軌跡」より

閲芧数74回
bottom of page