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  • 執筆者の写真Tsurumigawa

鶴見川流域に残っている「昔の舟」、綱島の池谷家と飯田家、樽町の横溝家

(1)池谷(いけのや)光朗家の御用船(港北区綱島東)


江戸時代の南綱島村名主で、屋号を「河岸(かし)」という池谷光朗家には、御用船(全長5300㎜、幅1070㎜、深さ370㎜)と呼ばれる舟があります。御用船は、年貢米を運んだといわれています。

明治3年(1870)の南綱島村明細帳に、「船持は二人、茶船造伝馬二艘」とありますが、池谷家の御用船はその一艘ではないかと推測できます。


一般に、茶船造伝馬(ちゃぶねづくりてんま)の船首構造は、港湾で波を切りやすい水押(みよし)タイプが多いのですが、池谷家の御用船は立板造であることから鶴見川のみを航行していたと思われます。


明細帳にも「年貢米は、南綱島村字橋場川岸より生麦村まで下って二里、ここで積替えて江戸まで海上八里である」と記されています。生麦には、年貢米を積替えたといわれている坂口屋河岸と十左衛門河岸がありました。


御用船側面は一枚棚で、船尾のマリクチには着脱可能な舵がついていたと思われます。また、船首及び船尾と梁との間は板子で蓋をし、中央の梁下にある溝は帆筒を取り付けたのではないかと思われます(池谷光朗さんは、溝は旗を立てたのではないか話されていました)。


池谷光朗さんの祖父道太郎は日月桃(じつげつとう)の開発で有名ですが、曾祖父の義広は明治時代に五大力船など多くの川舟を所有管理し、綱島河岸の中心として活躍されました。


(2)横溝正二家の水害予備船(港北区樽町)


水害予備船とは、水害時に家財や人を避難させる舟で、本来の使用目的から税(年貢)は免除ですが、普段は物資輸送・耕作に使用されていたので、江戸時代には川舟役所に登録し一艘300文の年貢長銭を納める舟が多かったようです。


鶴見川舟運復活プロジェクトでは、平成19年(2007)12月10日、樽町三丁目の横溝正二さんから水害予備船(全長4660㎜、幅1030㎜、深さ400㎜)を、貰い受けました。

樽は、江戸時代の昔より水害に悩まされた地域で、古文書によると寛政元年(1789)より天保13年(1842)までの54年間に水害によって18回年貢を免除されています。そのために、水害予備船と田舟を持っている旧家が多くありました。


横溝家の水害予備船には、「神奈川県免税」の焼印がありますので、被災者や家財を避難させるために活躍したと思われます。


また、樽町3丁目附近の古い地図には、小字として野(や)と記されています。野(や)とは、地名学では沼地という意味で、字名からも水害に悩まされた地域であったと想像できます。


附近には、「樽野谷(たるのや)」というバス停がありますが、バス停名を付ける時の聞きとり調査で「たるのや」と聞き、バス会社でこの漢字と充ててしまったと云われています。


本来は「樽の野」「樽之野」とすべきであったと云う意見が、現在でも地元にあります。


(3)飯田助知(すけとも)家の水害予備船(港北区綱島台)


飯田助知家の長屋門の中に、水害予備船(全長4545㎜、幅1050㎜、深さ340㎜)が保管されています。


飯田家の水害予備船には、船尾内側に「安神」(安心、心を落ち着けるという意味です)と焼印されています。舟は、昔は長屋門の外に置かれ、水害の危険があると池に浮かべて準備をしていたそうです。


また、飯田家は土地が高いので、長屋門の前までは水が来ても屋敷内に入ることは少なかったと云われています。

北綱島村名主、大綱村長、県会議長などを務めた飯田家歴代の当主は、鶴見川の水害予防に甚力されてきました。


大正10年(1921)に設立された鶴見川改修期成同盟会の初代会長には飯田助太夫(快三)が就任していますし、期成同盟会二代目会長と昭和9年(1934)に設立された鶴見川水害予防組合初代議長には飯田助夫が就任されています。さらに、予防組合の二代目議長に、飯田助丸が就任しています。


また、飯田助太夫広配が行った各種事業の中には鶴見川舟運に関係が深いものも多く、肥料会社を創設し下肥を舟で運び、また天然氷業では氷を舟で運んでいます。


(吉川英男)


(2011年発行冊子「鶴見川に和舟を浮かべました~夢見た仲間の50ヶ月の活動軌跡」より)

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